なりたい自分を阻んでいるのが自分の性格に思えても心配いらない

今週は何を話そうか迷う。

出来事としては3つあった。

ひとつは「自分の仕事をつくる会(5回目)」が開催されたこと。

2つめは、まぁまぁ遠方の友達が呼吸ほぐしのリピートで訪問してくれたこと。

そして1ヶ月かかったお風呂の改修が完了したことである。

内的な変化もあった。

来年は自分の本をつくると決めたものの、まずは自分の本のテーマを決めたいと思って寝かせていた状態から進展したり、

ふとした瞬間にこんなことを思ったりした。

こうやって列挙してみると、今日書くべきことは自ずとはっきりした。

起こった事実はツイートを見れば十分わかる。

自分の本をつくることに関してはnoteでくわしく書いた。

なのでここで書くべきは最後のやつ。

「あぁ、今まで考えることが苦手だと思っていたのは、ゆっくりと考えられる環境がなかったからなんだな」という気づき。

ここは説明すべき余白がたくさんあるので、今日はここを少し補足してみようと思う。

こういう人に対するあこがれがずっとあった。

  • 自分の状況を俯瞰し、
  • 問題を抽出し、
  • 自分の行きたい方向を定め、
  • やるべきことを洗い出し、
  • 順番にこなしていき、
  • 結果が出たらそれをさらにブラッシュアップしていく。

シンプルにいえばPDCAを回し続けることができる人。

その結果、行動の精度が高くなり、成功確率も高い人である。

しかしそんな人に自分がなれるとは全然思えなかった。

そもそも自分がどういう状況に置かれているか客観視できなかった。

これは瞑想が解決してくれた。

自分の体内で起こっていることを毎日観察し続けることで自然と客観性は育つ。

瞑想というトレーニングを続けることで客観視する力、今風にいうとメタ認知能力は育った。

しかしここから先が育つ気がしなかった。

問題を分析し、解決方法を洗い出し、とるべき道を定め、丁寧にこなしていくこと。

こうやって書き出してみると、どれもじっくりやればできることに思える。

問題は勝手に発生する。

この問題についてちゃんと考えようと思えばいいだけのことだ。

問題を分析するのも「問題が発生する仕組みはなんなのだ?」「何が足りないのだ?」と自分に問いかけるだけだ。

思いつかなかったらどんどん要素を細かくしていくだけ。理屈ではわかっている。

問題がちゃんと分析できれば解決方法も勝手に浮かぶだろう。

問題の構造がわからないから解決方法が浮かばないだけで、構造がわかれば解決方法はわかってくる。

実行するのもちゃんとスケジュールに落とし込めばいいだけのこと。

やるべきタイミングが来たら自分がわかるようにし、丁寧に実行し、実行済みのチェックを入れる。

なんの難しいことがあるのだろう?

しかしかつての僕はできなかった。

いや、今の僕もできてない。

でも自分の心に聞けばわかる。なんでできなかったのかが。

面倒くさがっていただけなのだ。ちゃんと考えることを。

一瞬で解決するような方法を求めていた。

深く考えなくても出てくる思いつきに飛びついていた。

問題の構造を理解せずに思いつきのアイデアに飛びつくから失敗する。

ただそれだけのことだったのだ。

じゃあなぜわかっているのにそうしなかったのか?

心が焦っていたからだ。

じっくり問題や取り組みたいことと向き合う落ち着きがなかったからだ。

これを僕はずっと自分の性格のせいだと思っていた。

落ち着いて考えることができない性格のせいだと。

ところが2ヶ月前に「さみしい夜にはペンを持て」を読んで気がついた。

複雑な問題を紙とペンで整理せずに考えることは、難解な数学の問題を暗算で解こうとするようなもの。

よほどの天才でないかぎり無理なのだ。

落ち着いた性格を持っていようが難しいことなのだ。

それから僕はいつでもノートとペンを持ち歩くようになった。

自分の中に浮かぶ思考をそこにメモし、アイデアが浮かんだ時もメモするようにした。

メモするようになると自分も変わってきた。

メモした考えるべきテーマについて覚えていることが多くなった。

脳内に無意識で保持されているからかアイデアも浮かぶ。

浮かんだアイデアをこれまでだったらメモしなかったから消えていったのだけど、メモしているからあとでもう一度確認することができる。

一つの問題にたいして出てきた答えを列挙していけば、これまでよりも深くアイデアについて考えることができるようになるはずだ。

でもなんとなく抜本的な変化がなかった。

なんでだろう?

書いたメモを読み返し、まとめ直す時間を持っていなかったのだ。

日々の生活に流されていると落ち着いて考える時間を持つのは難しい。

ところが昨日はゆっくりと時間が流れる日だった。

数日前から娘が咳をしていた。

熱もないし元気なのだけど、咳が出るし、顔にできものできる。

心の疲労が免疫を弱めているなぁと思っていた。

ところが昨日は夜中に長く咳き込んで苦しんだと娘と一緒に寝ている奥さんが言った。

学校のマラソン大会の日だったのだけど、そんな状況で無理に走らせても仕方がないので学校を休ませることにした。

奥さんが仕事だったので、娘と僕は呼吸の家に移動した。

ふだん娘に呼吸ほぐしなどのケアはしないのだけど、昨日はケアをした。

せっかくのチャンスである。

そしたらぐっすりと眠りについた。

だいぶ深く寝ていて2時間以上起きなかった。

疲れていたのだろうと思った。

娘が寝ている間、僕はそばで本を読んでいた。

自分の仕事をつくる会を一緒にやっているななちゃんのおすすめ本。

自分が欲しいものだけ創る! – スープストックトーキョーを生んだ『直感と共感』のスマイルズ流マーケティング –

忙しいビジネスマンはこういうビジネス書を速読でどんどん情報として流し込むのだろうけど、僕はスルメイカをしゃぶるように読む。

目から入ってくる文字が頭の中で化学変化を起こすその工程を楽しみながらのんびりのんびりと読む。

すると今ぼくが取り組んでいる「自分の本をつくる」についてのアイデアが浮かんできた。

浮かんだアイデアをいつも携帯しているノートのメモし、また本に戻る。

読む、メモする、また読む。

自分の好きな空間で好きな音楽を流しながら本を読み、メモする。

目の前には暖かな光の中でスヤスヤ眠る娘。

トロけるような幸せで安心できる時間だった。

そして気がついた。

「今まで俺はこんなふうに心の底から安らげる環境でこうやって何かを考えたことなかったかもしれない…」

いろんなアパートやマンションに住んできたけど、こんなに安らげる環境ではなかった。

カフェもコワーキングスペースも大好きだったけど、人の存在があるからここまで安らいでいることはなかった。

しかし昨日は心からくつろぎながら思考していた。

「これなら落ち着いて考えることができるな」と思った。

「なんだ、落ち着きがなかったのは性格じゃなくて環境のせいだったんだ」

人の性格は本質ではなく、環境によって作られるのかもしれない。

疑心暗鬼な人たちの中で育った子供は疑心暗鬼な性格になるだろうし、せかせか焦って生きている人たちばかりの世界で育てば同じようになるだろう。

暴力的な性格も暴力的な世界で育つだろうし、思いやりのある性格も思いやりのある人たちの中の方が育まれると思う。

僕は子供のころ、家庭で安らげなかったから深く考えることが苦手になったのかもしれない。

ということは親もまた心から安らぐことができなかったのではないかと思う。

というより自分の生活のなかで心から安らげる時間と環境を持っている人はどれだけいるんだろう?

そんなに多くはないんじゃないだろうか?と思えてくる。

なりたい自分になるためには自分と向き合う時間が必要だ。

そのためには安心できる環境が必要だと思う。

落ち着けない環境で自分と向き合うのは難しい。

僕は落ち着いて深く物事を考えられる人になりたかった。

でも少しずつそんな自分になってきた気がする。

瞑想すること。

自分の気持ちをメモすること。

呼吸の家で安らぐこと。

そういった習慣と環境が変えてくれている。

なりたい自分を阻んでいるのが自分の性格に思えても心配いらないと思った。

環境と習慣を変えれば性格は変わる。

心配いらない。大丈夫だ。

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