今週はインフルエンザウィークだった。
ゴールデンウィークはぽかぽか陽気の中で楽しそうな家族の笑顔が想像できるが、インフルエンザウィークはそうはいかない。
家族みんながゾンビのようになり、家にこもって寝込んでいるだけである。
日曜日に娘が高熱を出し、インフルエンザが蔓延しているらしくクラスも学級閉鎖になった。
月曜日・火曜日は娘を看病していて、自分はピンピンしていたので「俺の免疫の勝ちだな」とか思っていたら水曜日の朝に発熱。またたく間に39度まで熱が上がった。
「熱が出たら下がるまで断食」
これが僕のルールである。
食べ物の消化にはたいへんな体力を使う。インフルエンザと闘うためにエネルギーを使いたいのに消化に体力を使っていたらなかなか治らない。だから断食してすべてのエネルギーを免疫細胞たちに送る。
おかげで翌日には37度まで下がった。
病院には行ってないけど、インフルエンザだったと思う。
「病院には行かないの?」とよく人に聞かれるが、逆に「なんのために行くの?」と思ってしまう。
断食して寝てれば1日で熱が下がるのに、つらい思いして病院に行っても病状は悪くなるだけで治りは早くならない。
薬をもらえるから症状は緩和されるけど、そもそも免疫細胞たちが必要だから起こしている反応を抑えてしまったら、免疫力を育てるという面においてはあまり得策とは思えない。
とはいえ僕だって病院に行くことはある。
指を誤って電動ノコギリで切ってしまったときは救急車に乗ったし、スケボーで転んで肩を骨折した時も救急車に乗った。ウオノメがどうにも治らない時にも皮膚科にお世話になったし、風邪にうまく対処できなかった頃は風邪をこじらせて気管支炎になり、抗生物質のお世話になったこともある。
しかし僕は病院に自分の健康をゆだねない。
「何かあれば病院に行けば大丈夫」だとは考えない。
なぜそういう考えになったかというと、病院に行っても「原因はわかりませんけど、とりあえず薬を出して様子を見ましょう」ということがこれまで度々あったからだ。
お医者さんが無能なのではないと思う。
毎日たくさんの患者さんを見てきたデータ量と、事前に詰め込んだ知識は驚嘆に値する。
臨床医が大量のデータを集め、研究医が集まったデータから謎を解明していく。
それでもやっぱり医療では分からないことはたくさんあるのだと僕は思う。
もう一つ決定的に僕が「医者に頼るのではなく、どうしても分からない時に相談させてもらう」というスタンスであるべきだと思うようになったことがあった。
娘が生まれてすぐの時、そのころ住んでいた横浜市から案内が来た。
乳幼児を育てている両親向けに、子供の病気に対してどう病院を使っていったらいいか?を現場の医師が説明してくれる会の案内だった。
「これはすばらしい会だろう」と思って参加したら、思った通りすばらしい会だった。
内容の論旨をざっくり説明すると、
- 外傷などの明らかに命の危険があるときにはすぐに病院に来てください
- 発熱しても38度を超えない時には病院に来ても何もできません
- 38度以上の熱が3日以上続くようだったら、ある程度原因もはっきりするので対処することができます
- なので、心配なのはわかりますが、まずは自宅で安静にして様子を見て、3日経っても状況が変わらなければ病院に来るようにしてください
というものだった。
一言でいうと、横浜市は困っていたのだろうと思った。
子供の熱が心配なあまり病院に駆け込む両親が多すぎる。そのため限られたリソースでがんばっている現場スタッフを圧迫してしまう。
しかも、来てもらったところで何もしてあげられない。原因も病名もわからない。それで親たちはさらに不安になり不満を募らせる。
そんな悪循環が起こる前に最低限の手を打とうと思ってそんな会を催してくれたようだ。
この会は乳幼児を持つ両親向けのものだったけど、現実としてそれ以上に医療の現場を圧迫しているのは高齢者だろうと思う。
「本当にそれ病院に行く必要あるの?」
「それよりもっと日常でケアすべきことがあるんじゃないの?」
「医者に頼るばかりじゃなくて、自分でできることを自分の頭で考えた方がいいんじゃないの?」
と思う。
高齢者の多い町で高齢者と話していても思うし、両親と話していても思う。
「自分の健康を医者に丸投げしすぎじゃないだろうか?」
それって宗教を盲信している人そっくりじゃないか?
宗教と哲学の違いは「思考を停止するかどうか」らしい。
真理をつきつめようという姿勢は宗教も哲学も同じ。しかし宗教は神もしくは指導者が到達した考えをそのまま信じるのに対し、哲学は先を歩んだ宗教者や哲学者が到達した考えを鵜呑みにせず、探究し続ける。
哲学と宗教の違いを知ると、
「医療って宗教っぽくなっているよね…」
「盲信して自分の頭で考えなくなってない?」
と気づくはずだ。
「病院には行かないの?」には宗教を盲信している人の押し付けのような匂いがする。
「なんであなたは教祖様の話を聞きに行かないわけ?」と同じように聞こえる。
「いや、僕は自分で自分の人生を切り開くことに楽しみを感じるからなんですけど…」と言ったところで、「あんた程度がどんなに考えたところで教祖様のレベルにいけるわけないじゃない」と言われそうである。
それってまるで「プロサッカー選手になれるわけないのになんであんたはサッカーやっているわけ?」と言っているのと同じではないだろうか?
こうやって読んでみれば、「楽しみなんだからいいじゃないか」って思えるはずだ。
しかしなぜか医療となるとそうはならない。
「いや、医者にまかせずに自分でなんとかしようとするのは間違っている。危険だ」
どうしてもそう考えてしまう人が案外多い気がする。
それが世界の医療業界が巨額をかけて続けてきた情報操作のすごさなのだろう。
自分の健康は自分で守るものだと思う。
病院は四六時中自分達の状況を把握して、自分たちがやるべきことをサポートしてくれるわけではない。
病気が進行した一瞬だけを見て判断するのだ。
かなり優秀な彼らであってもすべてを判断できるわけではないし、誤診も多いという。
なんの本だったか忘れたけど、東京大学の内科医の権威の先生が退任式の挨拶で「僕の医師人生トータルでの誤診率は4割くらいだと思います」と言った時「すごい!!さすがは〇〇先生だ!」となったらしい。
でも一般人の僕らが聞いたらびっくりする。
「えっ!40%の誤診率でめちゃくちゃ賞賛されちゃうの?????」
「てか普通の内科医の誤診率ってどんだけ高いのよ!?」と。
さすがにこのエピソードを知ると盲信する気は失せるはずである。
僕らの体のなかには全身に張り巡らされたセンサー、神経細胞がある。
これら神経からの情報を正確に受け取れるのは僕ら自身だけだ。
もしもちゃんと体内を観察する能力を持ったなら、僕らの体のことをも正確に知りうるのは僕らなのだ。
だからこそ僕らは自ら健康状態を知り、自分にできることをすることができる。
どうしても自分の手には追えなかったら専門家の手を借りる。
そんな感覚がバランスの取れた感じがするんだけど、現実はどうなんだろう?
これを読んだ人が1ミリでも自分の健康は自分で守ると思ってくれたら嬉しい。
呼吸の家でお伝えしている呼吸と瞑想は自分の体内を知る感度を上げるための道具。
しっかり磨けば時に医者以上の能力を発揮する。
足りないところを医療や研究データに求めれば鬼に金棒だ。
健康に対する心のスイッチはオンになっているだろうか?