夏休みは終わったが、まるで夏休みが続いているかのように娘と過ごしている。
学校に行っている間はフリーだけどね!
朝起きたら、ストレッチ・ラジオ体操・筋トレ・Wii Fit Plusをし、
学校から帰ったら、バスケをし、算数ドリルをし、小説の音読をしている。
水曜日と土曜日にはミニバスにも行っているぞよ
そんなハードな日を少し抜けて、先週の土日に娘は妻の実家に遊びに行った。
大きなフリマ会場に行ったり、カップヌードルミュージアムに行ったりと楽しかったようだ。
2人は夜10時ごろに帰ってきた。
崎陽軒のシューマイ弁当をおみやげに持って。
シューマイ弁当、品があるのにボリュームがあっていいよね!
翌日は学校があるので、早く寝ないといけないが、娘は「お腹が空いた」とゴネ出した。
シューマイ弁当が食べたいのだ。
でも夜遅くに食べると睡眠の質が落ちる。
そもそも帰りにおにぎりを食べているからそんなにお腹は空いていないはず。
困った奥さんは僕に言った。
「パパはどう思う?」
「パパも食べない方がいいと思う」
でも空腹の訴えを無視したら、さすがに心が満たされないだろうと思い、冷蔵庫の中を見てこう言った。
「ヤクルトと冷奴なら食べていいよ」
しかしヤクルトを飲み、冷奴に向かっている娘は泣いていた。
シューマイ弁当が食べたいのであって冷奴が食べたいわけではないのだ。
「このままではまずいな」と思った僕は娘にこう言った。
「今、泣きながら食べているね。悲しいから全然進んでないね。全然おいしくなさそうだね」
「自分の願いが100%叶わなかったから嘆き悲しんでいるんだよね?」
「100%叶わなかったとき、いつもそうやって嘆き悲しんでいたら、悲しい時間を過ごすだけだね」
「それって自分が欲しい時間なの?」
「今目の前にある冷奴は100%願いが叶った形じゃないけど、20%は叶っているよね?」
「20%叶ったことを喜び、感謝することができれば、今体験している悲しい時間は嬉しい時間になるんじゃない?」
「今そうやって悲しそうに、不満そうに食べている姿を見ていると、豆腐をあげたパパとママは気持ちよくないよ」
「そんな顔して食べるなら食べなくていい!って言って取り上げることだってできるんだよ?」
「その20%さえなかったらもっと悲しいんじゃない?」
「ないことを悲しむのではなく、あるものに感謝し喜ぶ方がいい時間になるんじゃない?」
「それができないと今得ている20%さえ失ってしまうんじゃない?」
こんなことを話した。
結局娘は泣き止まず、ママに豆腐を取り上げられ、空腹のまま布団に入った。
お腹が空いていたわけではなく、シューマイ弁当を食べたかっただけなのでスヤスヤ眠り、翌朝は元気に起きた。
何事もなくてよかったね!
しかしこのとき娘に言った言葉がその後の2日間、僕に刺さり続けた。
バスケと算数。
娘が僕とやっているこの2つはけっこう努力が必要になる種目だ。
娘は「できないをできるに変える努力」が必要だし、僕は「できるに変わるまで諦めない努力」が必要になる。
できない時がつらいが、それを超えてできるようになった時、子供の顔が輝く。
できなくて泣いていたのがウソのように笑う。
大人はこのプロセスを何度も経験してきているから苦しい時も頑張れる。
苦しいところを抜けちゃえば報酬があることを知っているから。
でも子供はまだその経験が乏しい。
苦しい時に理性的に判断できない。
「苦しい→やりたいくない」が簡単に起こってしまう。
「苦しい→やりたくない」を許してしまう親もいるだろう。
でも僕はそう考えていない。
苦しみを超えてできるようになり、笑顔になるところまでをワンパッケージだと思っている。
そこまで到達すれば苦しかった時間は忘れ去られ、成功体験の記憶だけが残る。
「苦しかったけどやってよかったな」と思えるようになるのだ。
当たり前だが子供は大人と比べてできないことが多い。
大人からすると信じられないくらい思考力がないときがある。
あまりにも簡単なことができないときは頭を抱えたくなる。
時には「うちの子はものすごいアホなのではないだろうか?」と心配になったり絶望的な気分になったりする。
娘が考えることを放棄するとイライラし、時には怒り出してしまうこともある。
そんな自分の根気のなさに自己嫌悪になったりすることもある。
そんな毎日を送っていた僕だから、娘に言った言葉が刺さったのだ。
「ないことを悲しむのではなく、あるものに感謝し喜ぶ方がいい時間になるんじゃない?」
「それができないと今得ている20%さえ失ってしまうんじゃない?」
僕は娘が簡単にあきらめると怒っていた。
考えることを放棄すると怒っていた。
しかし怒ったら娘は怯えて余計に思考力を失う。
パパと一緒にバスケしたり、算数したりする時間が楽しくなくなる。
楽しくなくなったらやりたくなくなる。
そうなったら今僕が得ている娘との時間を失うことになるんじゃないのか?
それこそ一番起こってほしくないことなんじゃないのか?
あまりにもこれらの言葉が僕をつらぬくので、僕はこの気持ちを日記にまとめた。
書いていくうちに内省的になっていった。
書かなければ気がつかなかったことにも気づいていった。
できなくても怒る必要はない。
もっと暖かい目で見守ってあげよう。
一緒に時間を過ごしてくれていること、椅子に座ってくれていること、それだけで感謝すべきなんじゃないのか?
これに気がついてから僕と娘の時間は変わった。
僕が変わったから娘も変わった。
バスケの時間も算数の時間も前向きな時間に変わっていった。
親は時に理想論を子供に伝える。
こうあって欲しい。こうあるべきだと思うことを伝える。
そして時にそれは自分のできていないことだったりする。
理想を実現できてない者の言葉だったりするのだ。
今回の僕はそんな親だった。
自分ができていないことを娘に言っていた。
しかし言葉にしたことで自分ができていなかったことに気がついたとも言える。
だから言わないほうがよかったのではないか?とは思わない。
言ったからこそ気がつけたのだ。
その背後には僕の子供時代の経験がある。
「自分が出来もしないことを子供に言うな!」
子供時代、自分の両親に対してそう思ったから、自分はそうならないようにしようと思うようになった。
「やれやれって言うけど、自分は全然やらないじゃないか!」
そう思っていたから、自分は娘以上にやる親であろうと思っている。
両親は反面教師として僕に教訓を残してくれた。
僕は娘にとってどんな親として記憶に残るのだろうか?